そうだ、京都行こう2006

<史跡めぐり in 京都 2006/02/16〜02/18>



<新選組>

 今回の京都旅行のテーマは何と言っても「新選組」。 きっかけは言うまでも無くNHK大河ドラマ<ミーハー(笑) いつか行きたいと思っていたらこんなタイミングになりました。
 ちなみに「新選組」とは、倒幕運動に対抗するために幕府が募集・結成した組織。 主な任務は倒幕派の掃討・捕縛や京都御所近隣の警護など。 まぁ、簡単に言えば警察みたいなものですね。

 そしてもう一つの裏テーマは何と言っても、

家族サービス(爆)



<京都御所地区>

 さすがに新選組が活躍した場所だけあって、ゆかりの地が数多くあります。 ここでは北から5つの地区に分けて紹介していきましょう。
 まずは京都御所から。


【蛤御門(はまぐりごもん)】
 京都御所西側、南から2番目に位置する門です。
 元治元年(1864年)、倒幕派・長州藩と、幕府側連合軍・会津&薩摩藩との間で激戦が繰り広げられた場所。 会津藩配下である新選組もこの戦いに加わっていました。 門には弾痕が今も残っており、当時の激しさを物語っています。
蛤御門その1  蛤御門その2

 ・・・え、京都御所地区はコレだけ?(笑)



<三条〜四条河原町地区>

 京都のほぼ中央に位置する「四条烏丸(しじょうからすま)」から北東に徒歩10〜15分くらい。 世にも有名な「池田屋事変」があったのがこのあたりです。


【池田屋跡(いけだやあと)】
 「河原町三条」バス停から、三条通を東に歩いてすぐの所にあります。
 元治元年(1864年)、長州・土佐藩など尊攘派20数名が密会していたここ池田屋に、近藤勇率いる新選組10名で襲撃。 この戦いで明治維新が数年遅れたと言われるほど、尊攘派は大打撃を受けたと言われています。
 しかし、ホントにパチンコ屋になっているとは・・・(涙)
池田屋跡その1  池田屋跡その2

【佐久間象山遭難の碑
 (さくましょうざんそうなんのひ)】
 「池田屋跡」のすぐ東側にあります。
 佐久間象山とは塾生に吉田松陰や坂本龍馬がいたほどの偉い人物・・・だそうです(笑) 攘夷運動が高まる中で開国論を唱えていたため、元治元年(1864年)に尊攘派によってこの地で襲われたと言われています。
佐久間象山遭難の碑

三条大橋
【三条大橋(さんじょうおおはし)】
 「佐久間象山遭難の碑」から東へすぐのところ。この辺りはすぐ近くにあるため非常に行きやすいです。
 ご存知、新選組局長・近藤勇の「最期」の地。 明治元年(1868年)、近藤勇は板橋で斬首となりましたが、首は京都に運ばれ、ここ三条河原に晒されたと言われています。

【酢屋(すや)】
 「池田屋跡」のある三条通のすぐ南、「龍馬通」にあります。
 坂本龍馬率いる「海援隊」の京都屯所として使われていた場所です。 「坂本龍馬寓居の跡」という石碑が立っていますが・・・看板の陰で見えない?(笑)
酢屋

近江屋跡
【近江屋跡(おうみやあと)】
 バス停の「河原町三条」〜「四条河原町」のちょうど中間辺りです。
 坂本龍馬が身隠しの場として下宿していた場所。 慶応三年(1867年)、幕府見廻組によって襲撃され、盟友・中岡慎太郎と共にこの場所で暗殺されたそうです。
 ちなみに現在は「京阪交通社」。 時代の流れって・・・(涙)


<東山地区>

 京都の東端、「四条烏丸(しじょうからすま)」からバスで10〜15分くらいでしょうか。 ここにも幕末ゆかりの場所が点在しています。

【霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)】
 幕末〜明治維新にかけての貴重な資料が数多く展示されています(もちろん、新選組関連も!)。 「池田屋騒動」の模型はモデラー必見(笑) その隣には、ナゼか大河ドラマの撮影シーンの模型も(笑)
 写真撮影禁止なのが残念。<当たり前
霊山歴史館

京都遠景
【坂本龍馬の墓
 (さかもとりょうまのはか)】
 霊山歴史館の向かい側にある、明治維新に命を賭した1,356名の志士の墓です。 坂本龍馬・中岡慎太郎の他、桂小五郎(木戸孝允)の墓もここにあります。
 さすがにお墓の写真を撮るのは気が引けたので、お墓から望める京都の景色をパチリ。 坂本龍馬はここから今も京都の街を眺めているのですね。

【月真院(げっしんいん)】
 霊山歴史館のふもとから、北に少し歩いたところにあります。 
伊東甲子太郎ら「御陵衛士」が屯所として使用していた場所です。 「御陵衛士」とは天皇の墓を守る役目の事で、新選組から分離したい伊東が考え出した役職。 この後、伊東は近藤暗殺を企む事に・・・。
月真院


<壬生地区>

 京都の西端、「四条烏丸(しじょうからすま)」からバスで10〜15分くらいでしょうか。 新選組誕生の地だけあり、狭い範囲でゆかりの地が集中しています。

【八木邸(やぎてい)】
 「壬生寺道」バス停から南に徒歩2〜3分でしょうか。
 ご存知、新選組誕生の地。 文久三年(1863年)、13名の隊士から新選組の歴史は始まりました。 慶応元年(1865年)まで、ここを屯所として使用していました(第一次屯所)
 また、当時の新選組局長・芹沢鴨を暗殺したのもこの地。 写真撮影禁止のためここには載せられませんが、その時の刀傷がとても生々しかったです。
八木邸その1  八木邸その2

【壬生寺(みぶでら)】
 八木邸のすぐ南にあります。
 屯所が八木邸にあった頃、新選組の武術訓練所として使われていた場所です。 現在は近藤勇の胸像や芹沢鴨の墓がある「壬生塚」として残っています。 新選組ファンなら、八木邸と共に必ず訪れる所です。 残念ながら、ここも写真撮影禁止・・・。
壬生寺その1  壬生寺その2

【旧前川邸(きゅうまえかわてい)】
 八木邸の向かい側です。
 八木邸だけでは狭いため、ここも屯所として使っていたそうです。 むしろ、近藤たち幹部はこちらを使用していたとか。
 また、池田屋騒動のきっかけとなった、志士・古高俊太郎の拷問や、新選組総長・山南敬助が切腹したのもこの場所。 八木邸と並んで、新選組と最も縁の深い邸宅です。
 ちなみに私有地のため、内部は非公開です。
旧前川邸

光縁寺
【光縁寺(こうえんじ)】
 八木邸から旧前川邸を通り過ぎ、東へ5分程のところです。
 新選組との交流は深く、入口に「新選組の墓」の石碑がある通り、多くの新選組隊士をここで弔ったと伝えられています。 旧前川邸で切腹した、山南敬助もこの地に眠っています。


<西本願寺地区>

 京都駅から近く、北西に徒歩10分ほどの所に位置しています。 中期〜後期にかけての中心地です。

【太鼓楼(たいころう)】
 西本願寺の北東端にあります。
 慶応元年(1865年)〜慶応三年(1867年)の間、隊士が増えて八木邸が手狭になったため、「第二次屯所」としてここに移ってきました。
 当時、西本願寺の境内で大砲の訓練もしていたそうですから、住職にとってはさぞかし迷惑だったでしょうねぇ(笑)
太鼓楼

不動堂村屯所跡
【不動堂村屯所跡
 (ふどうどうむらとんしょあと)】
 西本願寺から、南へ徒歩10分〜15分。JR東海道本線のすぐそばです。
 新選組が幕府直参になった慶応三年(1867年)、西本願寺出費でこの地に「第三次屯所」を建築、移り住んできました。
 写真では非常に豪華な作り(爆)ですが、実際の敷地は1万平方メートル、30人が入れる大風呂もあったとの事ですからまんざらウソでもない?

【油小路決闘地
 (あぶらのこうじけっとうち)】
 不動堂村屯所跡から、東に徒歩5分ほど。 奥まった場所なので分かりにくいかも?
 新選組から分離した「御陵衛士」伊東甲子太郎が、慶応三年(1867年)この地で新選組によって暗殺されました。 その後、駆け付けた衛士も待ち伏せによって返り討ちに。 その中には、かつての「魁先生」藤堂平助も・・・。
 この後、新選組は転落の道を転げ落ちていくことになります。
油小路決闘地


<戦い終えて>

 ということで、長かった三日間も終わりを告げました。
 しっかし、よく歩きましたこの三日間! デスクワーク中心の仕事のせいか、日ごろから運動という運動をまったくしていない身にとって、この距離は少々こたえましたね。 もっと運動しなくちゃ。

 幕末の時代、倒幕派にしろ佐幕派にしろ、その中心にいたのは20代〜30代の若者でした。 彼らが「日本を守ろう」「日本を良くしよう」と奔走し、その若い命を散らしていったからこそ、今の日本が成り立っているといっても決して過言では無いでしょう。 「自分も頑張らなくては!!」と奮い立たせるには充分な、とても充実した旅行でした。

 とりあえず帰ってから一番やりたいのは、

「風雲 新撰組」(for PS2)。

 ちゃんちゃん♪




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